明智 光秀


 1528年、岐阜県可児市明智の明智城にて生まれる。(諸説あり)
 1556年、斎藤道三と義龍の争いに巻き込まれた明智家は当時の当主である明智光安の意向により、どちらにも味方せず落城する。その際29才の光秀と妻の煕子、甥の光春(明智秀満)は落ちのび、明智家再興を誓う。
 福井の称念寺に家族を預け、光秀は仕官先を探し全国を旅し、越前朝倉氏に仕官を求める。
 足利義昭が名門である朝倉氏を頼って逃れてくると、光秀は義昭の接待役を命じられ、そこで旧知の細川藤孝と再開し主君を朝倉義景から足利義昭へと移す。
 光秀は義昭上洛の後見を織田信長に依頼し、自らも織田の客将となり信長と義昭の橋渡しを任される。後に義昭を見限り信長の直臣となる。
 1569年 羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)とともに京都奉行に任ぜられ、信長による比叡山焼き討ち後、信長の家臣として誰よりも早く築城を許され、近江国滋賀郡に坂本城を建て居城とする。
 1575年 惟任の姓と日向守の職を与えられる。
 1579年 丹波周辺を平定。丹波亀山城・横山城・周山城・福知山城を築城。同時期に丹後の細川藤孝、大和の筒井順慶らの指揮権を与えられる。
 1581年 信長の権威を示すための京都御馬揃えにおいて、運営・接待を任される。
 1582年 6月2日秀吉の毛利征伐の援護をするため京都本能寺に宿泊しいた信長を、一足先に本能寺を発っていた光秀が、老ノ坂で引き返し本能寺の変を起こす。このとき発した有名な台詞で 「敵は西にあらず、敵は本能寺にあり」 とあるが、この言葉は後になって加えられたものという説もある。
 本能寺の変の5日前に、愛宕山で開かれた連歌会において光秀が詠んだ 「時は今 雨が下しる 五月哉」 という句が決起の句として有名だが、この句は本当は 「時は今 雨が下なる 五月哉」 であったとされ、決起の句ではなかったとも言われている。
 本能寺の変の後、異常を察した秀吉が備中高松城より戻り、京都山崎の地で光秀と対峙する。13日、数において圧倒的に不利だった光秀は、勝竜寺城に立て篭もり、坂本城へ戻る途中、小栗栖の竹やぶで土民に竹やりでわき腹を刺され死す。


辞世の句に

「順逆ニ門に無し 大道心源に徹す 五十五年の夢 覚め来れば一元に帰す」

「心知らぬ人は何とも言わば言え. 身を惜しまじ 名を惜しまじ」

の両説がある。

1528〜1582  54歳